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君が旅立つまでのこと

命を預かることの本望 - 最期の時に心が通う

命を預かることの本望

看取りのまとめとして(1/2)

ペットを飼うということは、命を預かることだという考え方があります。

犬猫の平均寿命は15年ほど。
その間、私たちは小さな命を守り、育むという重要な仕事を、神様から託されているのだという意味だと思います。

私たちは漠然と ”預かる” という考えに納得しているのですが、改めて考えてみると、”預かる” の意味は、とてもぼんやりとしているのではないでしょうか?

預かるという行為が、どういうことであるのか? 
また預かった者がやるべきことは何か? 

そんな考え方をしてみると、意外に ”命” に対する接し方がはっきりしてくるように思います。

命を預かるという意味と覚悟

飼主にとって愛犬の闘病は、選択の連続であることを、前章(第3章)の終わりに書きました。

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そしてその選択は、愛犬の最後の瞬間まで、ずっと続いていきます。

例えば臨終の時でさえ、我々は以下のような判断をしなければなりません。

最後の延命治療をするのかどうか?
目の前で苦しむ愛犬に、安楽死の道を選ぶのかどうか?
呼吸が止まってしまってから、蘇生措置をするのかどうか?

飼い主は最後の最後まで選択を迫られ、そして何を選択したとしても、後になってから、「本当にあれで良かったのか? もしかしたら、間違った選択をしたのではないか?」と、自問する日々が続きます。

ここで考えてみたいことがあります。飼い主が愛犬のためにしてきた選択は、全てが苦しみに満ちたものだったのでしょうか?

選択をした瞬間を思えば、それは確かに苦渋のものであったことは確かです。
しかし筆者の経験からすると、後になってその選択の数々を振り返った時に、決して苦い思い出ばかりではありませんでした。

当然ながら、犬は最後の選択(自分がどう逝きたいのか?)を、自分で行う事はできません。全ては飼い主の意志に委ねられています。それでは、飼い主が何を拠り所にその決断をするのかと言えば、それは飼い主の生き方、生き様を反映しているとしか言いようがありません。

このことを言い換えれば、”飼い主の生き方”"飼い主の生き様” が即ち、愛犬の死に方であるとも言えるわけです。

筆者と家族は愛犬ピーチーの最後の闘病には、積極的な治療はしないと決めました。そして残された時間を楽しく過ごした後で、別れの手段として安楽死を選びました。誰に相談したわけでもなく、誰の考えを参考にしたわけでもなく、最後は自分の生き方、生き様として、愛犬の死に方を選んだのです。

しかしピーチーは筆者の心が安楽死に傾いた瞬間に、まるでそれを拒否するかのような行動をしました。そこで筆者は、安楽死を思いとどまりました。

生きようとする意志 ~しかし安楽死は重要な選択肢~

一番最後の瞬間も、安楽死の一歩手前でした。主治医に安楽死のための往診をお願いした後での出来事です。ピーチーは主治医が家に着く前に、まるで自分の意志であるかのように、爽やかに去っていったのです。

さようなら、ピーチー ~お前を誇りに思うよ~

あんなに切羽詰まった状況の中でも、飼い主と愛犬は心を通わすことができるものなのですね。

今になって筆者は思うのです。
飼主が行う選択の数々は、決して苦渋のものではないのだと。
ではそれが何かというと、その子の命の全てをを預かっていることに対する、本望という思いです。

『わたくしは、わたくしの信念に基づき、愛犬の死に方を選んだ。本望である』
今は、心からそう思っているのです。

 

――第4章|看取りの記録を読もう(28/29)――

この記事について

作者:高栖匡躬
 ▶プロフィール

表紙:くろさん(飼い主:くろい蜜柑さん)

――次話――

次話は第5章のまとめです。

看取りを経験して思うのは、“それ”は一瞬のことではないということです。
別れの前から始まっていて、別れた後も続いていくのだと思うのです。
ピーチーが去って4年。
今も当時の気持ちが鮮やかに蘇ります。
看取りはまだ続いているのです。

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――前話――

前話は仲間たちからの励ましの最終話です。

生きぬいて逝きましたね
あの日届いた追悼の言葉(5/5)
ピーチーの闘病は癲癇から始まりました。
そこからブログを書き始めて、旅立ちまでは7か月。
最後に肺がんを発症し、別れの日までは12日間。
密度の濃い毎日は、
何年も闘病記を書いていたような気持ちでした。

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第4章の初話です 
この連載の初話です
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