終末期を楽しむという選択(4/4)
大切な愛犬との別れの時、一番最後に掛けてあげる言葉は用意していますか?
きっと、考えたくもないという方が多いと思います。しかし、もしかすると愛犬の一生の中で、最も大切な言葉がそれなのかもしれません。
考えてみませんか? 別れの言葉を。
死を恐れているのは飼い主だけ
筆者の愛犬ピーチーは、14歳7か月で天国に旅立ってしまう前に、2度死の淵に立ったことがあります。1度目は10歳の頃。膵炎から胆管閉塞を発症した時。2度目は13歳と9か月で、突然、劇症肝炎を発症した時です。
どちらも絶望的な状況で、主治医からは安楽死が選択肢として告げられました。
いずれの時も、筆者はピーチーの命を助けようとして、駆けずり回りました。
そして結果としては命拾いをすることができました。その頃の闘病の経過は、後の章でお伝えしようと思います。
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さてそのピーチーですが、2度とも予断を許さぬ状況で、明日にも、いや今日にでも息を引き取ってもおかしくない状況でした。しかしは不思議なことにピーチーは、苦しそうにはしていましたが、その眼は死を恐れるものでは決してありませんでした。
その時どきに筆者は思いました。
犬と言うのは、死など恐れていないんだ。その一瞬一瞬を一生懸命に生きているだけなのだと。
きっと、愛犬の死を恐れているのは、飼い主だけなのです。
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犬と言うのは、何度死に臨むことがあったとしても、きっと恐れなど微塵も感じることはなく、目の前の一瞬に立ち向かっていくのでしょう。それが本能であり、飼い主たちはそれをただ見守るだけです。
犬の寿命は人間よりもずっと短いけれど、はなかいものでは決してなく、全力でその時間を駆け抜ける、むしろ爽やかなものであるように筆者は思います。
きっと犬の一生というのは、楽しそうに飼い主の目の前を駆け抜け、そして去ってくだけなのではないでしょうか?
不意に脳裏に閃いた言葉 - またね
ピーチーが2度目の死の縁を覗いている時のことでした。
筆者はこのまま別れのときが来たとして、もしもピーチーが口をきけるのであれば、「あー楽しかった、またね」と言って欲しいなと思いました。筆者はそれに対して、「ああ、楽しかったな。またな」と応えてあげたいなと思いました。
何故そう思ったのか、もう覚えていません。もしかするとこれも、前の話に『生きざまと死にざまについて』で書いたような、飼い主の死生観の一つなのかもしれません。
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幸いにもピーチーはこのときも、1度目と同じように、死の淵を覗いただけで戻ってきてくれました。暑い夏の日のことでした。この夏以来、あの別れの覚悟を決めかけた時に脳裏に閃いた「またね」という言葉が、筆者にとって最も特別で、最も大切な言葉になりました。
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「またね」という言葉は、『虹の橋』で示される、飼い主と愛犬の再会のような、劇的なものではありません。もっともっとずっと普通の、挨拶程度の、約束ではない、ほのかな希望みたいなものです。
「きっともう会えないとは思うけれど、もしもまた会えたらいいね」
と言った方が、意味としては近いかもしれません。
しかし「またね」は、それよりもずっと再会に希望の持てる言葉です。
別れのイメージ - 笑いながら走り去って行く姿
2度目の死の淵以来、ピーチーは急激に体が弱くなりました。
元気溌剌で、一体何歳まで生きてくれるんだろうと思っていた愛犬が、突然に弱々しい老犬になり、「次の誕生日まで、一緒に頑張ろうな」と声を掛けてやらねばならないほどに、変わってしまったのです。
初めのうちはそれを、寂しいなと思いました。しかし目の前のピーチーは、飼い主のそんな思いもどこ吹く風で、弱ったら弱ったなりに、一生懸命生きていました。その姿を見て、逆に愛犬に励まされる思いでした。
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それからの筆者の頭の中には、愛犬ピーチーの死が、明確なイメージとして像を結ぶようになりました。その死の姿は、ピーチーが「またね」と言って笑いながら、ずっと彼方に走り去っていくイメージです。
「またね」と一言だけ言ったその後は、もう立ち止まることも、振り返ることもしません。真っ直ぐに駆けて行ってしまうのです。
本当の ”またね”
愛犬ピーチーに3度目の死の淵が訪れたのは、14歳と7か月の頃。ピーチーの命を最後に奪ったのは、肺癌でした。
1度目と2度目は、どんなことをしても治してやろうと思いましたが、3度目は違いました。治る見込みのない病気とは正面からは闘わず、残った一生をなるべく濃くしてやろうという思いしかありませんでした。
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その日は、突然にやってきました。
ピーチーがもう苦しまないようにと、”安楽死” を選択した朝でした。
主治医に往診をたのみ、その先生がピーチーを”安楽死” させてくださるため、うちに向かっている最中に、ピーチーは自分の意志で旅立ちました。
だから幸いにも、筆者もうちの奥さんも、その臨終の瞬間に立ち会う事ができました。
まずは2人で、「ありがとう」と伝えました。
次に、「さようなら」と言いました。
最後には、心から「またね」と言ってあげました。
筆者もうちの奥さんも笑顔でした。
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その時ピーチーは、筆者が思い描いていたように、一度も後ろを振り返ることなく、天国に真っ直ぐに駆け上っていったと思います。
素晴らしい思い出を、残してくれたなあと今も思っています。
とてもピーチーに感謝しています。
――第2章|犬の死とは(10/10)おわり――
――第3章に続きます――
この記事について
作者:高栖匡躬
▶プロフィール
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表紙:モカさん(飼い主:もかままさん)です。
――次話――
(次話は第3章の初話です)
愛犬が病気になった時、誰かが残してくれた闘病記は、大きな助けになるものです。
それは病気の知識だけでなく、闘病への取り組み方も教えてくれます。
しかし、自分に役に立つ闘病記は探し当てるまでが一苦労。
以前の筆者がそうでした。
――前話――
愛犬の介護には、とかく暗いイメージがつきまといますね。特に終末期は――
しかし実際に体験すると、そこには喜びも笑いもありました。
最後まで楽しむことはできるし、ぜひそうした方が良いと思います。
だってその瞬間まで、生きているのです。
犬も人も。
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▶ 第2章の初話です
▶ この連載の初話です
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