アイコンは、相棒のミニチュアブルテリアのピーチーです。
Peachy 高栖匡躬 (Masami Takasu)
自己紹介とプロフィール
パーソナルデータ
神奈川県横浜市在住
得意分野:犬、猫、コンピュータ、医療、農業など
経歴は?
ちょっと長くなりますが、自己紹介をしておきます。
どういう人間がこのサイトをやっているのかも、きっと気になるかなと思いました。
某大学工学部を卒業後、当時黎明期だったビデオゲーム業界に就職。
入った会社は今では誰もが知る大手企業ですが、当時は全国にあるゲームセンターのスタッフ(正社員)を全部含めても、1000人もいませんでした。
世の中に名前は知られていても、中堅企業だったわけです。
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ハードウェアかソフトウェアのエンジニアを希望して入社したのですが、配属先は企画の部署でした。入社試験で書いた企画書が、当時の上司に評価されたのです。
評価されたのだから、有難い事だと思いました。エンジニアへの未練はありましたが、企画でヒット作を飛ばすのも夢があるなとは思いました。
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そうそう、当時この会社は今では考えられないほど業績が芳しくなくて、同期入社は20人ほどでした。前の年には100人、次の年には200人を採用したので、一番谷の時期の入社でした。
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さて、企画の部署に配属はされはしたのですが、たまたま筆者は絵が描けたことで、大きく運命が変わることになります。
当時開発中のゲームで、グラフィックス担当が不足していたために、その要員として駆り出されたのです。驚いたのですが、現場に行ってみると、何とグラフィックに携わるのは、筆者がたった一人だけでした。まさにリアルに無理ゲーをやらされるのが、社会人としてのスタートでした。
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同期入社組が新人研修を受けている間に、筆者だけが現場の最前線でした。
当時のグラフィックは今のようなお絵かきツール(フォトショップなど)はありません。CGソフトもありません。そもそもMachintoshも出たばかりで、白黒だった頃の話です。
どうしても必要な場合は、自分で作画用のソフトウェアを組まなければならなかった時代でした。
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当時この会社は、変わり者の天才エンジニアの巣窟でした。外部の人たちからは、ハッカー集団のように誤解されていましたが、ハッカーはいません。
ハッカーよりも数段に腕の良いエンジニアが、技術でしのぎを削っていたのです。
なぜそんな天才たちが集まったかと言うと、当時のビデオゲームはサブカルチャーであり、カウンターカルチャーであったからです。自分の力で、世界が変わるかもしれないという無茶な夢をもった天才が、類は友を呼ぶで、引き寄せられていたのです。
犬と猫の関り、ことはじめ
犬や猫の話と全然違うと思われるでしょうね?
しかし、ここに筆者のルーツがあるのです。
80年代にバドワイザーのキャンペーンで使われたブルテリア『スパッズ・マッケンジー』を知ったのは、この会社の資料からでした。そこでいつかブルテリアを飼おうと決心するのです。
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そして、保護活動家の三毛ランジェロ氏(ツイッターはこちら:三毛ランジェロ (@g5zg4BLTjs8Yech) | Twitter)と知り合ったのもこの会社でした。三毛ランジェロ氏は、並み居る天才エンジニアたちの中でも、ひときわ輝いている人物でした。
この会社が大躍進を遂げたのは、三毛ランジェロ氏が当時まだ注目されていなかった任天堂のファミコンを解析して、技術資料を作り上げたからにほかなりません。
本家の任天堂にも作れないほどのゲームを連発して、この会社は急成長をしていくのです。ここまで書くと、その会社がどこだか、分かるかもしれませんね。
ということで、犬のルーツと、猫のルーツをここで知ることになったのが筆者です。
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その後ですが、その会社は一部上場を果たして大企業となり、ビデオゲームはメインカルチャーとなりました。就職ランキングでもトップクラスになりました。
――しかし、サブカルチャーとカウンターカルチャーに惹かれて集まった天才たちは、一人また一人と会社を去っていきました。三毛ランジェロ氏もその中の一人でした。
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筆者も三毛ランジェロ氏の1年後に会社を辞めました。退職後は放送機器に携わったり、デザインツールの開発をしたり、CGの技術開発したりなど。あるアニメ制作会社のアピールのために、米国にマーケティングにも行きました。実はこれがきっかけで、アニメ企画や、ビジュアル全般にも携わることになるのですが、長くなるのでそれはまた別の機会にでも書くことにします。
犬を飼うということ|ピーチーという愛犬と生きた14年と7カ月
目下の興味の中心は”犬との生活”。14歳と7か月で天国にいった、ミニチュア・ブルテリア、ピーチーがいまもずっと相棒です。
ピーチーは子供の頃から数えると、4匹目の子。しかし最初の3匹はもう、今とは全然違う飼い方でした。田舎ならごく普通の事でしたが、ご飯に残りもののおかずと、味噌汁をかけたものを与えて、当然ながら外飼いです。
当時の犬の平均寿命は5年も無かったのではないでしょうか?
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だから、モダンな犬と飼い主の関係でいうと、ピーチーは最初の子と言って良いくらいです。子犬の頃から家に迎えて、警察犬の学校に行かせ、色んな病気を経験して、なん度か死の縁を覗き、そのたびに必死に闘っては、元気な姿で戻ってきました。
ピーチーが大きな病気をするたびに、闘病記を書きました。
代表的なものを2つご紹介しておきます。
胆管閉塞をしたときの闘病記
劇症肝炎になったときの闘病記
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ピーチーは最後は肺癌になってしまいました。
前の大病のときは徹底的に闘ってきた筆者でしたが、肺癌とは闘いませんでした。戦意喪失したわけではありません。治らない病気になったときには、無理な治療はしないで、ピーチーらしく残りの時を過ごさせてやりたいと、ずっと前から考えていたからです。
そしてピーチーは、筆者が安楽死を決断した朝に、獣医師の手にかかることなく、自分で旅立っていきました。この時の闘病記もご紹介します。闘病記+看取りの記録です。
肺癌と看取りの記録
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闘病は心配で身をすり減らしたけれど、充実した毎日でした。看護も介護も、体は大変だったけれど、楽しく過ごしました。看取は辛かったけれど、しかし悪いものではなかったと今は思います。
人は犬に育てられ、犬は飼い主の生き方に寄り添う。そんな思いを強くしました。
ピーチーとの14年と7か月で気付いたことを、分かりやすい言葉で伝えていけたらと思っています。
また犬を飼うということ|ピィ子を迎えて、また新米飼い主に
ピーチーが去って3年半。
大きなペットロスはありませんでしたが、次の犬を飼おうという気にはなりませんでした。ピーチーとの14年7カ月で十分に満足していて、心は満たされていて、寂しい気持ちに花っても、悲しみはありません。
しかし、犬を飼わないと思っていた訳ではありません。
運命を感じる犬と出会った時には、我が家に迎えようと思っていました。
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ピィ子に出会ったのは、いや言い直しましょう。正確に言えばうちに来て、ピィ子と命名されることになる幼犬と出会ったのは、2019年の6月でした。
それは旧知の知り合いから送られてきた、たった1枚の写真です。
その日に、帝王切開で生まれたという幼犬というべきか、まだ幼犬ともいえないような、まるでネズミのような生き物の写真です。
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最初はその幼犬を飼おうとは思っていませんでした。
しかし、なぜか気になる存在でした。
数日考えて、ブリーダーさんに会ってみたいと思いました。
時間の調整をして、会う日程が決まりました。
それからです。立て続けに『もしかしたら運命かも』と思えるような出来事が起きたのは。その子が運命の子かどうかは分からないけれど、その子にしようという気持ちになりました。そして我が家は新しい犬を迎え、その子をピィ子と命名することになりました。その時の経過もお知らせしましょう。
ピィ子を迎える時のエピソード
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そして今に至ります。
きっとこれまでのように、ピーチーと過ごしてきた14年7カ月で感じたこと、学んだことでから、老犬との暮らしや、闘病、看取りの大切さは、ずっと綴っていくことになるでしょう。
更にこれからは、
新しく迎えたピィ子と積み上げていく新しい経験をもとに、出会いや、犬と共に生きる素晴らしさを、お伝えしていくことができると思っています。
最後に、新しい相棒、ピィ子のアイコンをご紹介します。
愛犬の紹介
ピーチー ミニチュア・ブルテリア
(2001年8月26日生)ー(2015年3月29日天国へ)
ピィ子 ミニチュア・ブルテリア
(2019年6月28日生)―