終末期を楽しむという選択(3/4)
愛犬の終末期は、悲しみに満ちたもの?
知らない時にはそんなイメージを持ったものでしたが、実際に自分で経験してみると、飼い主は悲劇の中で暮らすばかりではないことが分かりました。
ある種の切なさは常に胸の内にあるのですが、それを補うかのように、愛犬との絆が確信できる時期であり、笑いもあるし、喜びもあったのです。
気持ちの持ちようで、終末期と言うのは楽しめるものなのだな――
そう思いました。
飼い主は誰もが不安の中にいる
筆者は4年前の2016年3月に、愛犬を看取りました。
介護の最中には、沢山の方が書かれた闘病ブログをよく拝見していました。
それらを読んでみると分かるのですが、愛犬の終末期というのは、多くの飼い主を不安の底に落とすもののように思います。飼い主は目の前の我が子が、いつこの世を去って行ってしまうのかと、いつも不安にさいなまれているからです。
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当然ながら筆者も愛犬の終末期を経験しているのですが、幸運なことに、それほど大きな不安には襲われませんでした。むしろ筆者は愛犬の臨終の瞬間まで、愛犬との触れ合いを楽しんでいたように思います。
看取りの時期は、飼い主にとって切なさを伴うものです。筆者の場合もそうでした。
しかし実際にそれを経験してみると、そこにあったのは切なさだけではなく、ちゃんと喜びもありました。もう少し踏み込んで言えば、そこには ”喜びの種” のようなものが沢山あり、筆者は幸運にも、それに気づいて楽しむことができたように思います。
心の感度を上げれば見えてくるもの
”喜びの種” というのは、そのもの自体はまだ喜びではありません。
その存在に気がついて、それを楽しめるかどうかで、それが喜びになるのか、そうでないのかが決まるように思います。
それではどんなことが喜びの種なのかというと、些細なことばかりです。
我が家の愛犬の場合は、終末期の介護の段階に入ると、ほんのちょっと触ってやったり、笑いかけてやるだけで喜んでくれるようになりました。きっと心細かったのでしょう。
それを切ないと思えばそれまでなのですが、その変化を面白いと思った瞬間に、目の前の出来事は全て喜びに変わります。
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他にもあります。愛犬は衰えとともに、トイレが上手くできなくなりました。完全にできなくなったのではく、失敗が増えていったのです。
しかしそれも、受け入れてしまえばゲームのようなものでした。上手にできた時に思い切り褒めてやると、愛犬もやる気になって来て、トイレが上手くできたときには誇らしげに、「どうだ!」という顔をするようになったのです。
まるで仔犬に戻って、もう一度トイレのトレーニングをしている気分でした。
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もっと弱っていくと、愛犬は食べられるものも限られてきました。本当に好きなものだけに絞られていったのです。
例えば元気な頃には大好物だと思っていた、キュウリのへたや、キャベツの芯は一番最初に食べなくなったものでした。
「あれ、お前これ、本当は好きじゃなかったのか?」
そんな風に思ったものです。
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食べられないものが増えると、食べられるものを探すようになります。
そうするとまた、新しい発見があります。
日に日に弱っていく愛犬は、まるで新しい仔犬を家に迎えた時ように、次々に違う顔を見せてくれました。それを嘆き悲しむのも一つの考え方。”喜びの種” として捉えて、それを楽しむのも考え方なのだと思います。
残された時間は、どうか楽しむために使って欲しい
悲しみは人の心を硬直化させてしまいがちです。しかし、そこに目を奪われてばかりいると、貴重な ”喜びの種” を見落としてしまいかねません。
残された時間は、嘆くのではなくて、良い思い出を一つでも増やすことに使った方が良いと思います。それは飼い主のためだけでなく、愛犬のためでもあります。
最後の瞬間まで愛犬は生きているのですから。
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筆者の経験で言うと、愛犬の終末期は面白がっていたら、いつの間にか時が過ぎていました。愛犬が旅立つ僅か30分ほど前でさえ、「やっぱり肉球は枝豆の匂いがするな」などと言って、うちの奥さんと一緒に匂いを嗅いで、笑って頷きあっていたほどです。
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こんなような状態だったので、実は筆者は介護をしたという実感がありません。大変だとも思いませんでした。愛犬は最後の最後まで普通に生きて、ある時急に旅立ったという印象です。
今振り返れば、終末期は良い思い出ばかりです。
あのように終末期を過ごせたことは幸運でしたし、愛犬にとっても良かったのではないだろうかと思っています。
何故ならば、愛犬が大好きな飼い主の笑顔を、沢山見させてあげることができたのですから。
――第2章|犬の死とは(9/10)つづく――
この記事について
作者:高栖匡躬
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表紙:リッキーさん(飼い主:mamamiさん)です。
――次話――
『またね』は筆者が愛犬ピーチーを看取る時に、掛けてあげた言葉です。
「あー楽しかった、またね」
そう言って、笑いながら走り去るピーチーへの、最後の言葉。
別れの言葉なのに、再会へのほのかな希望を含んだ――
今も、あの時の記憶が、まざまざと蘇ってきます。
――前話――
特別なものに思えていた看取り。
しかし体験してみると、それはいつもと同じ日常の中にありました。
最期までトイレが上手くできたら誇らしく、家族がそばに居ると嬉しいのです。
きっと“死ぬ”なんて考えないで、いつものように“眠った”のではないかな?
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▶ 第2章の初話です
▶ この連載の初話です
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