死にゆく準備、死なせゆく準備(1/6)
4年前の3月に、愛犬のピーチーが旅立ちました。
元気溌剌で、絶体絶命の危機を2度も乗り越えて、一体何歳まで生きるのかと思っていたピーチーの最後は、とても呆気ないものでした。
まるで全力で目の前を駆け抜けていったようで――
ピーチーはそれまで生きてきたように、死んでいったんだなあと思ったものです。
犬の一生は、何故かとても爽やかに思えます。
生きざまという言葉、死にざまという言葉
筆者の好きな言葉の1つに、『生きざまと死にざまは同じ』というものがあります。人の死生観を語った言葉ですが、一体誰から聞いたのかはもう覚えていません。
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インターネットで検索すると、『よく生きたものが、よく死ぬことができる』という言葉が、洋画家の中川一政氏の言であると書かれてました。生前に氏が、ある禅僧から聞いた言葉だそうです。
私は、よく生きた者が、よく死ぬことが出来るのだと思っている。
それはよく働くものが、よく眠ると同じ事で、そこになんの理屈も神秘もない。
―中川一政―
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似たような言葉で、『よく死ぬことは、よく生きることだ』という題名の著作もあります。フリージャーナリストの千葉敦子氏が、自らの乳癌との戦い(つきあい)を描いたエッセイで、筆者は若かりしころこの本が出版された時分に、その題名に魅かれてハードカバーの単行本を購入しました。
内容はうろ覚えですが、死を見つめて生きることで得られる、生の密度の濃さを語っていたように思います。
『生きざまと死にざまは同じ』の意味は?
さて冒頭に書いた、『生きざまと死にざまは同じ』ですが、”生きざま”、”死にざま”という単語の言葉尻をとらえて、あまり意味の無い解釈の議論もあるように思います。
実を言うと生きざまも死にざまも、語源はネガティブな意味を持っているのです。
例えば『死に方が無様な人は、その生き方も無様であったに違いない』というような、死者に鞭を打つような解釈がそれです。
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しかし死というものは他人が評価するものではなく、自分が今わの際に、自分自身の心に問うものであると思いたいです。『自分はよく生きたのか? ああよく生きた』あるいは、『少し思い残すことはあるが、概ね満足だ』とか……
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ですから筆者は、『生きざまと死にざまは同じ』という言葉の本質は、『一生懸命に人生を生き抜いた人の死は、何も思い残すことが無く、爽やかなものであるのだ』という意味を込めたものなのだと考えています
愛犬の死をどのように捉えれば良い?
犬は自分の死について、考察することがあるのでしょうか?
きっとそれは無いでしょう。犬はただ真っ直ぐに、最期の瞬間まで生きることだけを考えているのですからね。
死生観というのは、心の弱い人間の拠り所に過ぎないのだと筆者は思います。
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犬の生き方は、飼い主に大きく左右されます。つまり犬の生きざまとは、飼い主の生き様を映す鏡であるとも言えるでしょう。更に踏み込めば、犬の死にざまとは、飼い主の生きざまそのものであるように思えます。
目の前で愛犬を亡くす……
それはとても悲しい出来事です。
しかしそれを悲しいだけで終わらせてはならないような気がします。
飼い主の生きざまというのは、飼い主が生きている間中続いていくからです。
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愛犬の死を少しでも意義あるものにしようと思うのならば、飼主がその悲しみを乗り越えて、その後の人生において、自分の生きざまを良くしていくしかないように思います。
愛犬に恥じないように、これからも生き続けるのだという決心だけが、去って行ったわが子に手向けることができる、真心なのではないでしょうか。
――第2章|犬の死とは(1/10)つづく――
この記事について
作者:高栖匡躬
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表紙:レオさん(飼い主:Shinoさん)
――次話――
別れの瞬間は特別なものか?
愛犬の死は飼い主にとって特別な時。
しかし全ての飼い主が、臨終の場にいられるわけではない。
死の瞬間は、そんなに大切なものか?
看取りは、予感のようなものから始まる連続した時間。
その瞬間に立ち会えないとしても、悔いるものではない。
――前話――
人間には悩みが尽きませんね。
いつも何かに悩んでいます。
1年前の今頃も、2年前の今頃も、きっと何かに悩んでいたはずです。
もしかしたら夜も眠れないほどに――
それが何だったのか、思い出せますか?
悩みにはきっと、賞味期限があると思うのです。
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▶ 第2章の初話(本話)です
▶ この連載の初話です
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