看取りの記録を残す理由(2/3)
”その時” を普通に迎えたい。そう思っていました。
別れが近いことは肌で感じ取れるものです。
だからこそ ”その時” を普通に過ごしたいと思います。
日常の中に別れがあるのだと思うのです。
”その時”、愛犬と言葉は交わせないのに、心が通うのを実感しますね。
ペットは自分の死を通して、飼い主に色々な事を教えてくれるような気がします。
寂しい事だけれど、とても良い時間だったと思っています。
愛犬を看取った経験はありますか?
皆さんは愛犬を看取った事は、ありますか?
筆者は2016年に、愛犬のピーチーを看取りました。
看取る前は、看取りとはどんなものか、想像もできませんでした。
しかし今は良く分かります。
あれは、別れではあるのですが、単純な別離とは少し違うもののような気がします。
何とも表現のしようがないのですが、看取りからまた、新しい何かが始まりそうな予感とでもいうのでしょうか?
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これは皆さんが共通の思いでしょうか?
それとも筆者だけの思いでしょうか?
これから、筆者が愛犬のピーチーを看取った時の、経験を書こうと思います。
12日間の出来事を、18話に渡って書いた闘病記です。
本記事と次記事は、その闘病記の前文です。
苦渋の覚悟と別れの形
飼い主と愛犬の別れの形は、各家庭ごとに様々であるはずです。絆が強ければ強いほど、その別れは辛いものになることでしょう。
突然の事故や、急病による急逝でない限り、ほとんどの場合がその前に闘病の期間があり、段々と弱っていく愛犬の姿を飼い主が目の当たりにします。
そして、傷心の飼い主に追い打ちをかけるように、もう間近に迫った別れの予感が襲ってきます。
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多くの人たちは、最初のうちはそれを打ち消すことでしょう。
しかし段々と愛犬の死が避けられないものであることを、素肌の感覚として感じ取るようになると、飼い主はやがて来る ”その時” のために、覚悟を決めはじめます。
この苦渋の覚悟は、経験した方でなければ、なかなか実感ができないかもしれません。
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筆者の経験に照らして言うならば、看取りの時を受け入れる覚悟は、決して悪いものではありませんでした。
覚悟さえ決めてしまえば、むしろ良い看取りをすることが大きな目的になり、むしろ気持ちの支えにさえなりました。
我が家なりの別れ
ピーチーが生きたのは、14年と7か月と3日。
その時間をずっと一緒に過ごしてくれた愛犬に、一番相応しい最期の時とは何かを真剣に考えるようになると、見送る時の心構えが次々に決まっていきました。
まずは、残された時間を看病とは考えず、普通に接して、楽しく過ごそうと思いました。そして愛犬の前では常に笑顔でいようという決め、見送る瞬間にも決して泣くまいと誓いました。
それは言いかえれば、我が家なりの見送りの方法を探すことでもありました。
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念のために申すと、筆者がここで書こうとしているのは、沢山の犬たちの見送りの瞬間の、たった一つの例にすぎません。
見送りには、唯一無二の最高の方法というものは存在しないはずです。しかしながら、我が家なりの送り方というものは、必ずあるように思います。
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この連載は、”我が家なりの別れの仕方”を模索した、ひとつの家族の記録です。筆者にとって良かったことが、どの家庭でも良いこととは思っていません。
しかし本作を読まれた方が、『我が家なりの方法』を考え始めるきっかけくらいには、なるのではないかと思っています。
いつかやってくるその日は、今の延長にあります。
どうか良い答えが見つかりますように。
――第4章|看取りの記録を読もう(2/29)――
この記事について
作者:高栖匡躬
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表紙:今回の表紙は、ピーチーです。
――次話――
ペットとの別れの時、しばしば奇跡のような出来事が起きます。
ずっと具合が悪かった子が、死の前日に元気を取り戻して歩き回ったり、
家族全員が集まる時を待つように、息を引き取ったり。
そんな奇跡は、我が家には起きそうにないと思っていました。
それが――
――前話――
はじまりは小さな変化でした。
体の震え。ときどき息が粗い。食欲不振。
ピーチーは大病を2度経験してから、体調が悪いときがたまにありました。
既往症もありました。
またかな? と思いました。
その時は――
しかしそれは、“別れの始まり”でした。
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