闘病記が教えてくれること(3/5)
犬の闘病記を読んでいると、”奇跡的に助かった”、”奇跡的な回復をみせた” という表現を時々目にすることがあります。
さすがに ”奇跡” というだけあって、いつでも起きる訳ではなく、どこにでも起きるものでもありません。しかしながら、この ”奇跡” という現象は、厳然と存在しています。何故そう言えるのかというと、筆者が愛犬で遭遇したからです。
――しかも、2回も。
これから、その ”奇跡” について書こうと思います。
どうやって奇跡は起きるか?
振り返ってみて、なぜ奇跡が起きたのかと考えてみると、その奇跡が起きる前に飼い主が、”奇跡”が起きる確率を上げているように思えます。筆者の経験に照らしてもそうでしたし、他の飼い主さんの闘病記を読んでもそのように思います。
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奇跡は飽くまでも奇跡であり、「飼い主が自らの力で奇跡を呼び寄せた」などという不遜な考えをするつもりはありません。筆者の感覚でいえば、最初は0.1%ほどの、ほぼ0%と言っても良い絶望的な生存確率の中、愛犬の命を諦めきれずに手を打ち続けることでそれは起きます。
そうしているうちに、打った手の幾つかが奏功する。気がつけば生存確率は0.1%から1%に上がっているのです。
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見方によっては1%も、0%に近い状況だという事には変わりはありません。しかし闘病が始まった時点の0.1%に比べれば、なんと十倍もの確率に上がっているわけです。そんな中で、飼い主の力が及ばはない、何らかの力――まるで神様が手を貸してくれたような力――が加わる。
それが筆者にとっての、”奇跡” の印象です。
飼い主にできるのは、ただ奇跡が起きる確率を上げることだけ
飼い主の努力で勝ち取ったのは、確率1%ではなく、もしかしたら3%だったかもしれないし、5%、10%であったかもしれません。いずれにせよ、飼い主にできることはそれほどの事でしかありません。
筆者の場合は幸運にも ”奇跡” の神様が微笑んでくれましたが、もしかするとそうでない事の方が多いのかもしれません。そんなに望みが薄いにも関わらず、なぜ努力をしたのかといえば、せざるを得なかったという言葉がしっくりときます。
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当時、奇跡を当てにしたかというと、全く当てにはしていませんでした。
奇跡を期待したかというと、期待もしていませんでした。
ただ、何もしないで見守るという事ができませんでした。
諦めきれなかったというだけなのです。
過程は奇跡的だが、結果は必然
後の記事に詳しく書きますが、我が家のピーチーの場合は、治療方法を選ぶまでの過程で幾つもの幸運がありました。
2度奇跡を体験したと書きましたが、2度とも急性疾患で、一刻を争うような状態でした。1度目は急性膵炎から併発した胆管閉塞。2度目は劇症肝炎です。
どちらの場合も1日対応が遅れていたら、恐らくは助かっていないという局面。
ギリギリのタイミングで、治療方法を絞り込むことができたのです。
この絞り込みまでの過程は、正に奇跡の確率だったように思います。
しかしそれを乗り越えたあとは、それまでの薄氷を踏む状況に較べて、呆気ないほど順調にピーチーは快方に向かいました。
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今になって当時を振り返ると、”奇跡が起きる確率を上げる努力”にも、効率が良いものと、そうでないものがあったように思います。そして確実に、勝負所という局面は存在していました。
次話以降では、筆者と愛犬ピーチーの闘病について、具体的に何をやったのかをお伝えしようと思います。どんなに絶望的な状況においても、まだ努力の余地が残っていることを知っていただけると嬉しいです。
奇跡的に命拾いをしたピーチー。排尿用のドレーンがまだついています。
――第3章|闘病記を読もう(3/28)つづく――
この記事について
作者:高栖匡躬
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表紙:ココナッツさん(飼い主:あおい空さん)
――次話――
「セカンドオピニオン」と「二次診療」
知っていても、実行される飼い主さんは少ないようです。
それを嫌う獣医師もいるそうです。
これらはもっと、気軽に利用されるべきです。
治らないと言われた病気が、治癒することもあるのです。
――前話――
先人の残した闘病記から、我々は沢山のことを学びます。
時にそれは失敗のケーススタディであり、時に心構えや覚悟を伝えてくれます。
初めて通る道は険しいけれど、私たちは誰かが先に歩いてくれた道を、ついて行くことができるのです。
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